幻のラーメン「富公」の話  この幻のラーメンについて書こうと思ったのは、ある異業種オーナーの方達のセミナーへ講師として行った時、有名ホテルの札幌所長(女性)から「是非まとめてみて」と云われたことに端を発する。叉ラーメン談義の中で事あるごとに必ず登場するのが「富公」(とみこう)であろう。
 まず「富公」の開店から。場所は、札幌市中央区南1条西2丁目仲通り(カナリア洋服店裏)時は、昭和35年12月。店主は、菅原富雄さん。この場所は、元々お父さんと2人で靴店を営んでいたいた所だがこの頃から既に手作りの注文靴の仕事もあまり入らず小松靴店(現パルコ)からの修理の下請けだけでは、靴店は、立ち行かない。ある日、父親が「靴店をやめる」と云った時、即「ここでラーメン店をやる!」と決め父親に承諾を得る。元々ラーメン大好き(今のラーメンフリーク)でラーメンを食べ歩いていて「味の三平」の常連でもあったので早速「味の三平」に恐る恐る「ラーメン屋をやりたいので教えて貰えないでしょうか」と頼み込む。その時、故大宮守人氏は「手を取って教えることは、できないが私の動き(仕事)をよく見る事だな」と。それから菅原さんは、約50日間、夢中で大宮さんのすべてを学ぶこととなる。幸い父親が菅原さんの修行中に店の改装をしてくれていたので修行後直ちに「富公」の開店となる。かくして開店数日後から口コミの効果もあり終日客の絶えない店となる。一日平均350食、多い日は、500食、雪祭り等の日は、600食もでていたというからその繁盛ぶりがわかろうというもの。それとパフォーマンスとも思える麺あげのアミ玉を釜に叩きつける音と店主菅原さんの大きな怒号の様な声が店いっぱいに響きわたる中、客は、丼に向かい夢中で食し満足して帰って行く。怒られなければ「富公」の客ではないという神話まで生まれた「富公」にまつわる数多いエピソードから2つほど紹介しよう。
亡くなる前の1年間は、闘病生活の中、店を開けたり閉めたりの日々が続いた「富公」。
「臨時休業」の張り紙は、いつしか「富公」を愛する顧客達の励ましの寄せ書きとなっていった。
 ススキノのある店のマネージャー文子さんも「富公」の大ファンで常連だったそうだ。菅原さんから気に入られ、「どうだ『文公』の名でラーメン屋をやらないないか」との誘いを受けた事を大事な思い出として胸の奥にしまっていると云う。また札幌のある有名ラーメン店の店主は、開店から閉店まで「富公」に傾注した人で狸小路7丁目移転の際は、自分の会社の事務所を「富公」のすぐ近くに移してしまった程の人。お嬢さんが大学受験を失敗し傷心の時、「富公」へ。既に営業時間が過ぎていたにも関わらず、ラーメンを作ってくれたそうだ。この店主が申し訳けないと1300円の代金に2000円をおこうとしたら頑として受け取らなかったと云う。傷心のお嬢さんが美味しそうに食べて元気になってくれた事が嬉しかったのではと話してくれた。動作、言葉の荒さ(若さ故もあったであろう)とは、裏腹に菅原さんは、本当に、心根の優しい人だったことがこの事からも伺える。常に客を敵と考え真剣勝負を挑んでいたのでは、ないだろうかとも云っている。これから先のラーメン業界でも不世出のラーメン職人菅原富雄さんがこの世を去ったのが平成4年、享年52才だったが今もあの「富公」の香り、匂いのするラーメンが多々存在する事が菅原さんの偉大さを象徴する良き証しであろう。心より冥福を祈る。


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